こころが醸す
6代目の日記
血が変わる。
皆さま、おつかれさまです。
ともぞう。ことタカユキです。
7月になり日に日に暑さ増していますが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
蔵内は6月末に最後の醪を搾って、瓶詰め、火入れが終わって、長かった冬がひと段落。
先週末は昨年秋以来、久しぶりに頭空っぽの週末を過ごしました。(笑)
なぜ、私が酒造りをするように(酒造りをすること)になったか?
これを読んでくださっている方の中には、酒蔵の経営者はみんな酒造っているんでしょ?造れるんでしょ?と思っている方も多くいらっしゃると思いますが、これがそうではないのです。
当蔵の場合、私の父(5代目)までは酒造りをしたことがありません。
これは当蔵に限ったことではなく、酒蔵の規模も関係なく、昔の酒蔵ではほぼ当たり前のことでした。
昔は冬の間の出稼ぎの方々を中心とした蔵人さん達が酒造り、蔵元は経営、の役割分担によって酒蔵が成り立っていました。
蔵人の中の統括酒造責任者がいわゆる「杜氏(とうじ)」さんです。
当社の場合、昔は冬の11月頃になると新潟県から杜氏以下、数名の蔵人さん達が蔵に来てくれました。
そこに地元の米農家さんが数名加わり、1つのチームになります。
出稼ぎで来てくださっていた蔵人さんは11~4月までの間、蔵の隣の宿舎で泊まり込み寝食を共にして酒造りをする。
正社員の方は誰一人酒造りすることなく、日本酒を瓶に詰める瓶詰め仕事以降が正社員の方の仕事でした。
新潟県の他にも岩手県をはじめ、雪深い地域の皆さんが冬の間 全国の酒蔵で酒造りをする、それが一つの酒造り文化。
越後杜氏(新潟県)、南部杜氏(岩手県)、能登杜氏(石川県)、など他にも名杜氏と呼ばれる方々がいらっしゃった地域が沢山ありました。
私もまさか自分が酒造りをすることになろうとは…蔵に戻るまでは、ほぼ想像していませんでしたね。
想像以上にサラリーマン時代が早々に終わり、蔵に戻った2002年の冬から酒造りに携わります。
その時は、新潟県から杜氏さん(おやっつぁん)が来てくださって数名での酒造り。
それから3造り目に差し掛かる秋、おやっつぁんが一線を退くことが決まり、一緒にやれるのも最後となった冬。
自分がやる、というよりは、自分しかいないな、から始まった酒造り人生。
全てはあの冬。
毎朝、寝坊せずにしっかり早朝に起きるようになり、朝早くから杜氏さんの後についてまわり、毎晩のように「おやっつぁん、ここは何でこう?、これはどういうこと?」別人かのごとく。
その冬の終わりが見えてくるころ、初めて雑誌(dancyu)に「 澤の花 」が掲載されたのは良く覚えています。
そして、そこから四苦八苦の20年が始まるわけです。(笑)
いい酒、旨い酒を造りたい、との想いはあるのに、どんな酒を造りたいのか?が上手く言葉で表せない。
あの頃から自分の目指す酒のイメージは、常に口の中にはあった。
でも、それが上手く表せない、伝えられない。
ただ、がむしゃらに休みなく酒造りをする。
今のように、発酵管理の計算式やデータが豊富にあった時代ではなく、経験値と感覚が最優先だった時代。
当時、良い酒を醸す設備もほぼ無い中で、あるのは気持ちだけ。
ただただ思う酒を造りたい気持ちと、舐められたくない気持ちと、よくわからない反骨精神…。
先月、そのお世話になった「おやっつぁん(杜氏さん)」が永眠されました。
当蔵で15歳から55年酒造りをしてくださった方でした。
穏やかな越後弁で「いい酒造れるようになったねぇ。」そう言ってもらえていたら嬉しい。
酒蔵6代目ですが、一生一人の造り手としての人生でいよう、改めてそう思った1日でした。
酒造りをしなければいけないところから酒造りを知ったわけですが、一度知ってしまったら最後、酒造りを知らない自分にも戻れないわけで。
自ら酒を造ることになったのは、幸か不幸か、今は幸と言えるようになりました。